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ヨロン島の基礎知識

ヨロン島の人口や面積などの説明

ヨロン旅を計画する前に知っておきたいヨロン島の基礎知識をご紹介いたします。
これを読むと、どんな島か理解が深まり、旅の楽しみが増えるはず♪

geographyヨロン島の地勢

上空からみたヨロン島

ヨロン島は、北緯27度55秒~27度3分55秒、東経128度23分~128度28分に位置する鹿児島県最南端の島です。
北緯27度線の海外の都市といえば、アメリカのフロリダ州、中南米のバハマ。そしてインド。

鹿児島から南へ576km、沖縄本島の北約23kmに位置し、奄美大島から沖縄、台湾までの弓状の島々の連なりである琉球弧に属しています。
周囲は23.7kmとハーフマラソンと同じくらいの距離、面積20.58km2です。 最高点標高97.1mで東京タワーの3分の1くらいの高さで、島全体が平坦な段丘状地形となっており、上空から見ると丸い形状をしています。

ヨロン島はサンゴ礁(琉球石灰岩)が隆起してできた島です。
島の地質の大部分は、琉球石灰岩と基盤岩に由来する礫質部からなる琉球層群で構成され、島の周囲のほとんどが発達したサンゴ礁地形という地質的、地形的な特徴を見ることができます。

ヨロン島は、一島一町の島で約5,000人の島民が暮らしています。
ヨロン島の気候ですが、亜熱帯に属しており、気候は年平均気温22.9度、年間降水量1798.1mm、年平均風速5.2m/sで、島内には常流河川が無く飲料水は地下水を利用しています。

historyヨロン島の歴史

舵引き丘(ハジピキパンタ)

ヨロン島には、アマミク(女神)とシニグク(男神)が漁に出かけ、舵が浅瀬に引っかかり、上陸したところ、サンゴ礁が盛り上がって島が誕生したという神話が伝承されており、神話の地「舵引き丘(ハジピキパンタ)」が、ヨロン島誕生の聖地として今も残されています。
歴史的には、縄文・弥生時代の土器などが多数出土しており、奄美群島や沖縄との交流があったと推察されています。

島内の一番の歴史的スポットといえば与論城。
1405〜1416年頃、琉球の北山王の三男王舅(オーシャン)が築城しましたが、途中、北山王滅亡により築城が中止され未完成となっています。
天然の三層の断崖及びこれを結ぶ石垣が500m余にわたります。北端から南東へ延長200m余の石積みは、伏龍を形どったものだと言われています。

1945年の太平洋終戦以降、ヨロン島は沖縄や奄美群島と共にアメリカの統治下におかれました。
その後、1953年12月25日に奄美群島とともに日本本土に復帰しました。
1972年の沖縄が復帰するまでの間、日本最南端の国境の島でした。

tradition & cultureヨロン島の伝統・文化

与論民俗村の茅葺屋根の家

ヨロン島は鹿児島県最南端の島ですが、沖縄本島との距離が近く、歴史・文化をはじめ交易や人的交流等でも沖縄・琉球とのつながりも強く、奄美群島内でも沖縄文化の影響が色濃く残る島です。
そのため、沖縄・琉球と奄美諸島両方の文化の影響を色濃く受けたヨロン独自の文化、伝統が育まれてきました。

今の与論島住民の暮らしでも、那覇をはじめとする沖縄県内への進学や通院、買い物など、県境を越えた人流、物流が盛んです。

またユンヌフトゥバと呼ばれる与論方言も沖縄方言と奄美方言の2つの特徴を持つ独自の方言です。
また島内では「旧暦のある暮らし」が残っており、伝統行事は旧暦で行われるのも特徴です。

ヨロン島を代表する伝統行事といえば国の重要無形民俗文化財に指定された「与論十五夜踊り」。
与論十五夜踊りは、島内安穏、五穀豊穣の祈願のために室町時代の永禄四年(1561)に創作された奉納踊で、本土の狂言や奄美群島や琉球舞踊を取り入れており、歴史的に貴重なものとされています。

また、助け合いの精神「結(ゆい)」が今も大切に受け継がれ、漁、農作業、冠婚葬祭など生活に深く残っています。